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きょうは仕事納め。少し疲れが出たか、あるいは風邪気味か、なんとなく気力不足でしたが、遅刻しながらも会社に行きました。訃報のことを関連の会社等に流していたので、私もここに少し書かせてもらいます。 大阪の葬儀は会社の社長早嶋健の葬儀でした。早嶋健は、旭屋書店、旭屋出版などの社長、会長も歴任していました。 産経学園の創業者、早嶋喜一が昭和41年2月の全日空の事故で急逝し、それから産経学園の代表者になりましたから、実に40年近く産経学園の社長でした。 あまり表だって出ることは好きでなかったのか、講師の方の親交はあまりありませんでした。しかし、産経学園祭には、毎年、開幕時から最後まで客席に座っていました。それでも、先生方に特別に挨拶はしませんでした。(してもらうようにしなかったこちらが悪いのいかもしれません)。 住まいは大阪でしたし、旭屋書店での仕事がどちらかというと優先していたと言えます。 一番のエピソードとしても、まだ大阪駅前にあったころの旭屋書店のことになります。昭和39年1月31日の夜、旭屋書店が大火に見舞われたのです。隣のパチンコ屋から夜の1時30分頃火が出て、4時過ぎまで燃えました。この火災で、旭屋書店の本館の1階、2階は全焼しました。かろうじて別館は焼け残ったのです。そこで、早嶋社長が下した決断は、別館は休みなく、その日から営業をするということでした。周りが焼け、しかも書店の本館も焼けてしまっているのに、営業です。夜のうちに社員が集まって、別館を整理、定刻通り開店しました。 そして本館は、3日間で、建て直し、2月3日にはすべて平常通りの営業を行いました。これには、さすがの浪速っ子も驚いて、新聞、雑誌にも大きく報道されました。 このお店の復興には、出版社、取り次ぎなどの応援もありましたが、特に嬉しかったのは、関西の各大学の教授、学生が応援してくれたことです。アルバイトで溜めたお金ですと寄付を申し出られた人もいました。旭屋書店は本を必要とする人に愛されていました。 産経学園で思い出すのは、初めて産経学園に来たとき、秘書に名前をつけた社員の写真を用意させ、名前を覚えていたことです。ほとんど初対面でいきなり、名前を呼ばれて、驚いた社員も多かったです。(まだアルバイトでしたが、そんな事を知っていました。しだいに、社長は遠くになって行きます) また、印刷のミスを見つける名人でした。何度かよばれてしかられました。数字にも強く、暗算も速かったです。 これは、まだ私が独身だったころ、宝塚である女性とデートをしていて、社長の家族とばったり会ってしまいました。それからしばらくは顔を合わすと、よくひやかされました。そんなことも胸が熱くなるように思い出しました。 |
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